風穴を開けた糸川ロケットの技術力ー秋山演亮【あと38日】

ソ連のコロリョフ、ドイツのフォン・ブラウンとおなじく、日本国内で取り上げられるのが、ペンシルロケットによって日本の近代ロケットの基礎を築いた糸川英夫先生です。しかし日本が世界で4番目に人工衛星「おおすみ」を打ち上げた快挙の現場に、糸川先生はいらっしゃらなかったのをご存知ですか?
米ソ冷戦時代に、ロケット技術、すなわちミサイル技術は高度な戦略・戦術技術として厳しく両国が管理していたのですが、そこに風穴を開けてしまったのが糸川先生だったのです。これを憂慮したアメリカは、フォンブラウンロケットの進化型のデルタロケットの技術を無償で日本に供与します。アメリカがこのような高度技術を無償で、しかもこんなに広範囲に他国に技術移転したことは後にも先にもありません。その理由が「糸川ロケットを潰すこと」だったのです。
当時、文部省で開発されていた糸川ロケット(固体)に対抗して、科学技術庁にデルタロケット(液体)技術が導入され、それぞれ宇宙科学研究所・宇宙開発事業団として熾烈なロケット開発競争を繰り広げることになります。糸川先生自身もそのエキセントリックな性格が禍し、朝日新聞が展開した「反糸川キャンペーン」でスキャンダルとなり、責任を取ってロケットの開発現場から去ります。しかし、残されたお弟子さん達が頑張り、1970年に人工衛星「おおすみ」の打上に成功するのです。
このとき、糸川先生は一人、アフリカの砂漠を車で走っていたと言われています。カーラジオが「あの敗戦国日本が独自技術でロケットを開発、世界4番目に衛星を打ち上げました!」という驚愕のニュースを伝えるのを聞きながら、涙したと言われています…

秋山演亮

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsass1969/39/445/39_445_55/_pdf/-char/ja